体良く美しく

最近めっきり寒くなってきましたが、いかがお過ごしですか?

今日は世間一般でいう「はなきん」。えっと花金って書くのかな?

わかんないや。そんな俗っぽいのは無視します。私は「えぇオタクですよ。自覚あります。」

んで、本題。私は一応写真学科卒業なのだが、昔からどうも相容れない写真というのが

あるんです。それはもういってしまいますが、ヌード写真です。

海外のはまだギリギリですが見ることはできるのですが(理解できない分)、私にとって本当に何もないのです。日本のヌードの古臭さも苦手。性質の問題なのでしょうか。まだ、風俗案内版の写真のが、目的と肉体表現が一致していて収まりがよい気がします。つまり、撮り手と被写体の意思疎通。そこなのかな。

それをどうにか「アートの域」にまで高めて撮影しようという、魂胆が嫌いなのです。かったるいです。いやまじで。ラリークラーク、クライン、大道なんかのエロスには美学を感じます(詩的、ストリートあるいは不良を)。アラーキービニ本なんで、完結はしてるなぁと思う。あと、ほかにも見たけど覚えてないや。ほんとそれぐらい印象に残らない。というか嫌悪です。「そんなことがお前の全てなのかくだらねぇ!」と思うのでした。

しかし、世間の半分は異性だ。身体の捉え方は一つのジャンルとして確立されているし(彫刻、石膏、絵画、ペインティング、映画、写真、演劇。)それにしても、脱ぐ必要あるか?と思うのでした。ばいばい。

 

 

同じ問題

早朝に目覚めて、何かにハロー、それからワーク。

んで何か良いことがあればと思う。接客の時に何か話かけてくれた人がいるんだけど、今考えると、その人はしばらく来なくなってしまう。そういう場合がある。

あれはなんなんだろうか。僕は人と話すのがはっきり言って怖い。

できれば何も話さずに終えたい。もっと言葉を大事にしたいということなのかもしれない。リヴレスクということだろうか。

 

久しぶりに夜中、寒かったので誰もいないだろうと夜間徘徊。

案外、集まれるところには人がいた。そういうひねくれた人たちとはあまり関わりたくないと常々思う。あとベタベタの関係も。

先日、旧友から魂が揺さぶられる場所があると助言を乞うた。

しかし、それはもう自分にとって興味を失ったことだった。

 

無理をしない、働きすぎない。せかせかしない。少しの余裕と、四季を感じられるスローな生活。好きなものに囲まれて。

覚醒夢もしくは夢、だから必死で生きる

で、覚醒夢の続きなんだけど。準備はいい?僕は今からアホみたいなことを言いますから。

以前、空を飛んでみたいと思っていた時期があった。

そんでいざ夢の中に入る、そう思ってから、数日間は空を飛ぶ夢を見ることに成功したんです。

それで幾夜か、繰り返し理不尽な夢をみながら最後は空を飛ぶという。ルーティンがあった。

それから、そのうち、あぁこれは「夢なんだ」と思う瞬間が出てきてしまった。

だって実際、飛べるわけないしね。それは自分自身が妖怪をみずに、幽霊をみてしまう感覚です。

フロイト然り、これが私の覚醒夢に目覚めた瞬間だった。

そう、それは夢を夢と享受した時だったのです。

自分にとってそれがいかほど重要な出来事だったのか計り知れません。

無意識を愛する私は、夢が人生だと思っていましたから。

総じて言いたいことはただひとつ。

 

「人生は夢のようだ、夢のように生きて、後悔をするな。」

 

で、 あぁ、ニーチェみたいなことを言ってしまった。

 

次回はフランクな話をしたいと思うのでした。今回はこれで。

 

夢日記

書いていた時期が少しだけあるんだけど、再度復活させようなんて

ここ一週間枕元にペンとノートを常備しておいた。

いくつかくだらない不条理な夢をみて寝ぼけながらかいていた。

なかでも秀逸なのがあったのだが今思うとそうでもない。

その時めちゃくちゃ良いと思っていたアイディアが次の日には

とてもつまらないと思う瞬間、あるでしょ?

 

そう簡単に面白いことは浮かばないんだなぁ。

次回、覚醒夢についてかけることを書いてみます。

 

おやすみなさい。

それから、

彼がレコードを回し始めた

僕は踊った 彼女はそれをみていた

テーブルには空のグラスがあった

だけどあの時楽しかったんだよな

 

レコードをギターに変えた

彼はAm 彼女はそれをみていた

私立生高校の憂鬱を歌っていた

なにか変える力があったんだけど

 

昨日みた街角の話を聞かせておくれ

座っているだけの話 瞬間が燃え尽きるってことを

裏と表のある人間

僕にとっての人間というのは消耗品でしかないのかもしれない、

そんな内容の夢を見て悪寒。何がひつようかって?

そんなことは考える時柄ではない。私は軍隊だ。ただ一人の。

で、炭酸水が私の脳内を駆け巡った。青色を止めないで。

リンゴ色ひとつ、ヴィレッジに対しての憎悪。

だから誰も相手にしないのだろう。

はっきり決めよう。ヒッピーとヤッピー。

全員、銭に負けた、

自然食のギャルと共に愛を求めて肉を喰らう。

棚田に野宿するおまえを見た。

あぁ、ありがとうただ感謝。そしてさようなら。

君の泣きたい笑顔をみたいだけであった。

すきな時代

ミッド・ナイト・イン・パリというウッディアレンの映画を見て思ったことがあった。

僕のすきな時代はいつだろうと。

僕は、聴く音楽や服装、総じた文化はスウィギン60年代が好きで、

これからもそれが軸になっていくんだろうななんて考える。

もちろん知らない時代があるだけで、理解していないこともたくさんある。

ロココ、アールヌーヴォー、ゴシック、そういえば今年ダリ展がある。

 

で、少し前にその時代のリバイバルというか、その時代に憧憬を抱いた若者たちがそのムーブメントを疑似体験しようみたいな「言葉」や「活動」が行われていた。

それは僕の生まれた80年代後半から90年代初頭にかけてのやく10年弱なんだけど、

この時代のそういった「「衝動」」みたいなものにどうも、ひっかかることがある。

それは時代というか国民性も含めてなんだけど、、、。

 

まず服装。これはどうもダサい。バブルです。みたいな胴長の背広にセカンドバック。

 

これは全く受け付けられないのだけど、その時代のドラマや映画など眺めていて随所に出てくる、「間」。僕はその「間」に虚無感を感じるのです。

 

これは口では説明しがたいのですが、映像の断片を馬鹿みたいに語りたいなどとは思わない。やはりここでもぶち当たるのだ。正常感覚ってやつに。しかし、90年代が憧れた60年代、その90年代の中に僕が求めた60年代の感覚があるとしたら、もっと90年代をしる努力をしてもいいのではないのかという気がするのです。

それにもう僕も生まれてはいる年だし、なんとなく信用できるのだ。安心安心。