○を交えた所属の経緯。

私にとっての学生生活を振り返ってみよう。これは過去に生きるとかではなく、これからの為にひとつこの場を借りて整理(解放)しようということである。

まず小学校、割と活発で習い事もたくさんしていた。水泳そろばんサッカー柔道、塾。毎日学校が終わってからなんか行ってた気がする。(なにも身についてない!)時にはダブルブッキングなんてザラだった。もしかしたらこの時期が人生で一番忙しかったのかもなぁ。

んで、中学、実家のコンビニで働き始めて小金を手にしていた、おかげで部活も一回やめたりした。この時期から夜更かしを覚えて、オタク化しはじめる。学校もほとんど遅刻、パンク、ニーチェヒトラーエヴァ。いわゆる厨二病。ここで健全さが失われました。あと友達と呼べる人間は皆無でした。

そして高校、ほとんど記憶ない。けど、バンドとか。あとはバイクが好きになった。毎日早退か遅刻。あとずる休み。

最後、大学、もう流石に普通の勉強はうんざり。周囲みんな東京に行くので、ひねくれて大阪に行くことを決意する(関西NO WAVEみたいな)。でもそん時はこれだ!と思ったんだよね。受験の時にはじめて大学を見た時は山の上にあって「城みたいだなぁ」とか思ってん。写真はすごくいい経験だった。フィルムってところが。

 

前置きが長かったけど、僕が所属の限界を感じはじめたのはきっと中学だと思う。もう世の中の構造とかそういうのが見え始めてきて。世間の粗探しみたいな。馴れ合いの虚しさを感じとってしまっていたから。

 

だけど、片親の手前、大学まではどうにかうまくやろうと意識はしてた。けど、もう投げやってもいたかも。だからその分教養、つまり「一人遊びの力をつけよう」とつまらないことを考えていた。他者の重要性なんて考えてもみなかった。どっかで冷めて見下してしまっていた。今思うと損したなってか資本主義に乗り遅れたな。と思う。

で、結果今は自分のかつて望んだ形になりつつある。適度な運動を兼ねた仕事。表面の会話。てことは自分は客観視したらストア派なのかなぁ。多分今は少なからずそれに属して日々乗り越えている気がします。

 

というフィクションどう?

宗教、所属するという選択

私に。

 

いや、僕にとっての「所属する」という意識はすごく大事。

それは、それを認めたことになるし(所属すれば)、

ある意味リベラルでいられない不自由さも出てくる。

考えはそりゃ個人の自由でいいとはいいと思うけど、

一つの事や人物を祀ってしまうのはいかがなものかと思う。

例えばよくヤクザの世界にあるような「それが全て」のような世界。

仁義は嫌いではないけど、一神教は嫌いだという話です。

「この人のいう事は大丈夫!」そこに出てくる甘え。

「あぁこんな人を待っていた」という堕落。

僕はいつだって「自分の人生」という言葉を自分に言い聞かせます。

それは自己保身のためではなく、自らの役目を全うしたいが、為。

僕の元に多くの友人が訪ねてきます。その度に問う。「おめぇ、生きてて楽しいか?」、蟠りを持った「膿」たち。まぁ、単純に取り除きたいのです。

しかし、人生において他者の意見を聞くという事も重要なのです。

「Affiliation」

これは僕なりのアンサーワードです。もう一度聞く「おめぇ、生きてて楽しいか?」

 

それを踏まえて学校の話はまた明日にでも。

体良く美しく

最近めっきり寒くなってきましたが、いかがお過ごしですか?

今日は世間一般でいう「はなきん」。えっと花金って書くのかな?

わかんないや。そんな俗っぽいのは無視します。私は「えぇオタクですよ。自覚あります。」

んで、本題。私は一応写真学科卒業なのだが、昔からどうも相容れない写真というのが

あるんです。それはもういってしまいますが、ヌード写真です。

海外のはまだギリギリですが見ることはできるのですが(理解できない分)、私にとって本当に何もないのです。日本のヌードの古臭さも苦手。性質の問題なのでしょうか。まだ、風俗案内版の写真のが、目的と肉体表現が一致していて収まりがよい気がします。つまり、撮り手と被写体の意思疎通。そこなのかな。

それをどうにか「アートの域」にまで高めて撮影しようという、魂胆が嫌いなのです。かったるいです。いやまじで。ラリークラーク、クライン、大道なんかのエロスには美学を感じます(詩的、ストリートあるいは不良を)。アラーキービニ本なんで、完結はしてるなぁと思う。あと、ほかにも見たけど覚えてないや。ほんとそれぐらい印象に残らない。というか嫌悪です。「そんなことがお前の全てなのかくだらねぇ!」と思うのでした。

しかし、世間の半分は異性だ。身体の捉え方は一つのジャンルとして確立されているし(彫刻、石膏、絵画、ペインティング、映画、写真、演劇。)それにしても、脱ぐ必要あるか?と思うのでした。ばいばい。

 

 

同じ問題

早朝に目覚めて、何かにハロー、それからワーク。

んで何か良いことがあればと思う。接客の時に何か話かけてくれた人がいるんだけど、今考えると、その人はしばらく来なくなってしまう。そういう場合がある。

あれはなんなんだろうか。僕は人と話すのがはっきり言って怖い。

できれば何も話さずに終えたい。もっと言葉を大事にしたいということなのかもしれない。リヴレスクということだろうか。

 

久しぶりに夜中、寒かったので誰もいないだろうと夜間徘徊。

案外、集まれるところには人がいた。そういうひねくれた人たちとはあまり関わりたくないと常々思う。あとベタベタの関係も。

先日、旧友から魂が揺さぶられる場所があると助言を乞うた。

しかし、それはもう自分にとって興味を失ったことだった。

 

無理をしない、働きすぎない。せかせかしない。少しの余裕と、四季を感じられるスローな生活。好きなものに囲まれて。

覚醒夢もしくは夢、だから必死で生きる

で、覚醒夢の続きなんだけど。準備はいい?僕は今からアホみたいなことを言いますから。

以前、空を飛んでみたいと思っていた時期があった。

そんでいざ夢の中に入る、そう思ってから、数日間は空を飛ぶ夢を見ることに成功したんです。

それで幾夜か、繰り返し理不尽な夢をみながら最後は空を飛ぶという。ルーティンがあった。

それから、そのうち、あぁこれは「夢なんだ」と思う瞬間が出てきてしまった。

だって実際、飛べるわけないしね。それは自分自身が妖怪をみずに、幽霊をみてしまう感覚です。

フロイト然り、これが私の覚醒夢に目覚めた瞬間だった。

そう、それは夢を夢と享受した時だったのです。

自分にとってそれがいかほど重要な出来事だったのか計り知れません。

無意識を愛する私は、夢が人生だと思っていましたから。

総じて言いたいことはただひとつ。

 

「人生は夢のようだ、夢のように生きて、後悔をするな。」

 

で、 あぁ、ニーチェみたいなことを言ってしまった。

 

次回はフランクな話をしたいと思うのでした。今回はこれで。

 

夢日記

書いていた時期が少しだけあるんだけど、再度復活させようなんて

ここ一週間枕元にペンとノートを常備しておいた。

いくつかくだらない不条理な夢をみて寝ぼけながらかいていた。

なかでも秀逸なのがあったのだが今思うとそうでもない。

その時めちゃくちゃ良いと思っていたアイディアが次の日には

とてもつまらないと思う瞬間、あるでしょ?

 

そう簡単に面白いことは浮かばないんだなぁ。

次回、覚醒夢についてかけることを書いてみます。

 

おやすみなさい。

それから、

彼がレコードを回し始めた

僕は踊った 彼女はそれをみていた

テーブルには空のグラスがあった

だけどあの時楽しかったんだよな

 

レコードをギターに変えた

彼はAm 彼女はそれをみていた

私立生高校の憂鬱を歌っていた

なにか変える力があったんだけど

 

昨日みた街角の話を聞かせておくれ

座っているだけの話 瞬間が燃え尽きるってことを